熊本典道元裁判官

「袴田事件」の一審静岡地裁の主任裁判官を務めた熊本典道さんが2020年11月11日、福岡市の病院でお亡くなりになりました。83歳でした。

 一審当時に袴田巖さんは無罪との心証を持ち、300ページに及ぶ無罪判決書を書きながら、裁判官の合議で2人の裁判官を説得できず、主任裁判官として死刑判決を書かざるをえませんでした。判決の7ヶ月後に裁判官をやめ、弁護士になったものの、死刑判決を書いてしまったという良心の呵責に耐えられず、酒におぼれ、家族関係も壊れ、何度か自殺を図ったりしました。

 2007年、39年の沈黙を破って袴田巖さんの死刑判決の内情を告白、世界中に衝撃を与えました。その時以降、国内外の取材に答えたり、陳述書を裁判所に提出したりして、袴田巖さんの冤罪を訴えてきました。

 数年前からは、病院に入院、脳梗塞の影響で言葉もままなりませんでしたが、袴田巖さんへの思いは最後まで強く持っていました。しかし、袴田巖さんの再審完全無罪を見届けることなく、死去されました。

 


熊本典道元裁判官の陳述書  2007年

 

 袴田巌死刑囚の再審を求める上申書

 

 貴裁判所において審理されている平成一六年(し)第二五八号再審請求事件について、第一審裁判官、熊本典道の陳述書を添えて上申致します。

 

                 東京都東村山市久米川町一ー五〇ー一ー四ー四〇一

                  無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会

                                 代表 門 間 正 輝 

   平成一九年六月二五日

 

最高裁判所 第二小法廷 御中

 

 

 私熊本典道は、貴裁判所において審理されている平成一六年(し)第二五八号再審請求事件の原審静岡地方裁判所で主任裁判官を務めた者です。公判当初より、私は、袴田巌被告人は無罪であるという心証を持っていましたが、合議の結果、他の裁判官を説得することが出来ず、主任裁判官として死刑判決を書かざるを得ませんでした。しかし、良心の呵責に耐え切れず、翌年裁判官の職を辞しました。控訴審で無罪の判決が出るものと期待しておりましたが、それも叶わず、袴田巌さんがいまだ獄中に囚われていることは、断腸の思いです。原審判決言い渡しの際の、袴田巌さんが手錠を外され被告人席に来たときの顔、判決言い渡しのときにがっくりときた様子は、忘れようにも忘れられません。自分の親や子供の顔を思い出さない日はあっても、この時のことを思い出さない日は一日もありません。

 評議の秘密を守らなければならないことは十分理解しております。それ故、三九年間沈黙を守ってまいりましたが、そろそろ体力、精神力に自信がなくなってきました。四一年間獄中にある袴田巌さんの再審を実現させるには、最後のチャンスになると思い、非難を覚悟の上、私の無罪心証を公表したものです。

 

 私は、昭和一二年に佐賀県に生まれ、九州大学法学部卒業と同時に司法修習生(一五期)に採用され、東京地方裁判所、福島地方・家裁両裁判所白河支部を経て、昭和四一年一一月、静岡地方・家庭裁判所に転任しました。一二月二日に開かれた袴田巌さんの第二回目の公判から担当しましたが、石見裁判長に頼んで、第一回目の最初からやり直してもらいました。検察官が起訴状を読んだ後の袴田さんの最初のひと言がいまでも忘れられません。非常に低い声で、力むでもなく、ただ静かに穏やかに「私はやっておりません」と言いました。法廷が終った後、裁判官控え室で、私は裁判長に「石見さん、我々三人の方が裁かれているような感じですね」と言いました。

 私は、検察が主張するように、一人の人間が刃渡り約一二センチのクリ小刀だけで四人を殺害できるだろうか、また母親や子供と一緒に住むアパートを借りる金がほしいからといって、世話になった専務一家を殺害するだろうかと疑問を持ちました。そして、自白の任意性についても疑問を持ちました。二人の松本司法警察員が袴田さんを間にはさんで、二十日近く密室で調べたことがわかりましたので、私は公判で彼等に「あなたは刑事訴訟法によれば黙秘権が保証されてるということをどう思いますか」といきなり聞きました。私が何でこんなことを聞いているか、肝心な警察はわからないようでした。調書は臨場感が全くありませんでした。私は、最初から疑いをかけているな、二十日間も無茶苦茶な取り調べをするのは、確たる証拠がないからだろうと思いました。結局一通を除いて調書を採用しませんでした。最後の一通も他の四四通と変りはありませんが、有罪判決を書かねばならなくなったため、心ならずも妥協の産物として採用したものです。

 公判のある段階で、私なりにおかしいと思いました。少なくとも、今まで出ている証拠で袴田さんを有罪にするのは無茶だと思ったのです。次の仕事は、何とかして合議で二対一になることです。石見さんは自由がまだ残っている時代に法律家になった一種の自由人でした。しかし私は石見さんを説得できませんでした。何で石見さんと高井さんは「有罪」を支持したのでしょうか。私なりに分析してみますと、私は事件が起きた後、東京から突然静岡に赴任したので、報道被害を受けていません。石見さんも高井さんも非常に真面目な人だから、あれだけの報道に接したら、無罪とは言えなかったのではないかと推察しています。

 非常に残念だったのは、一審の弁護人がもうちょっと何かやってくれるのではないかと思ったことです。この事件の審理を担当して、まず異常に感じたのは、弁護人三人の訴訟活動と、被告人の『完全否認』との間の落差の激しさでした。十分な弁護を受けられなかったことだけでも、「無罪」と出来るケースだったと思います。

 当初は石見さんは無罪心証だったので、私は既に三六〇枚の無罪判決を書いていました。しかし合議の結果有罪死刑となり、取り決めだから判決文を書いてくれと裁判長から言われました。私は三六〇枚の無罪判決を破り捨てて、一から書き直しました。つぎはぎだらけでした。見る人が見たらすぐわかるはずなのに、どうして私のところにどなり込んで来る人がいなかったのか不思議に思っています。何でその時に職を辞さなかったのかと聞く人もいますが、そんなに簡単な話ではありません。もし私が辞めていたとしても、結論は変わらなかったでしょうし、もっとすんなりといって、死刑が執行されていたかもしれません。当時の東京高裁はそれなりに見識を持った裁判官がいたので、私の無罪心証に気づいてくれると信じて期待していました。

 無罪には二種類あります。真犯人がいる場合と、有罪か無罪かわからない場合です。残念ながら袴田さんは後者ですが、もうちょっと警察や検察がまじめにやってくれていれば、真犯人は出てきたのではないかと思います。刑事裁判は、国家機関である検察官が、これこれこういうわけだから処罰してくれと言ってきた通りの証拠があるかないか、それだけしか判断できません。人間が人間を裁くことはできません。「疑わしい時は罰せず」という原則に立ち戻るしかないのです。私は死刑は反対です。死刑に代る制度はあると考えています。ただ、制度を維持する限りは、全員一致で判決を下すこと、一人でも反対すれば、死刑にすべきではないと考えています。

 裁判官のみなさま、私はこの三九年間、有罪判決を書いてしまった責を背負ってきました。その重さに耐えかねて、何度か死を選ぼうとしたこともあります。しかし今は、いまだ再審の実現していない袴田巌さんのため、少しでも私に出来ることがあれば、残された年月をかけて償いたいという思いでおります。原審判決が以上のような事情で書かれたことをご理解いただき、袴田巌さんの再審を開始していただけますよう、切に切にお願い申し上げます。

                                 以上

 

                            福岡県福岡市東区×××××

                                     熊   

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注)袴田巌さんを救う会では、熊本典道元裁判官の陳述書を添えた上申書を3回裁判所に提出していますが、上記は最初に最高裁に宛てて提出したものです。(3回とも内容はほぼ同じです)

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熊本典道元裁判官をめぐる年表

2007. 3. 9「死刑廃止を推進する議員連盟」の院内集会で、熊本典道・元静岡地裁裁判官が、一審当時

     袴田巖さんは無罪だと主張したが2対1で死刑に決まったと告白(テレビ朝日「報道ステー

     ション」では2.28に証言を放映)。国内外に衝撃を与える。
2007.6.24  袴田巌さんを救う会、公開学習会(PART10)「それでも、まだ私を有罪 死刑にしたいので

     すか」開催。講師:熊本典道(元静岡地裁裁判官)(於・カトリック清瀬教会)
2007.6.25 救う会、最高裁に袴田巖さんの再審開始を求める4,004名の署名(国際署名を含む)を添え

     た請願書及び熊本典道元裁判官の陳述書を添えた上申書を提出。記者会見を開く。 (第一次

     再審請求)

2010. 5.29    袴田巖さんと熊本典道元裁判官を描いた映画「BOX 袴田事件 命とは」(高橋伴明監督)公開。
2014.2.25 救う会、熊本典道元一審裁判官の陳述書とともに署名1,973筆を静岡地裁へ提出。 (第二次

     再審請求)

2014.3.27   静岡地裁、袴田巖さんの再審開始と死刑及び拘置の執行停止を決定。袴田巖さん釈放。

2014. 6. 6    『袴田事件を裁いた男』(尾形誠規著 朝日文庫)出版。

2014.10.8    『袴田事件 裁かれるのは我なり』(山平重樹著 ちくま文庫)出版。
2017.5.22 TBSテレビ「1番だけが知っている」で熊本典道元裁判官について放映。
2018.1. 9  袴田巖さん、50年ぶりに熊本典道元裁判官と面会。(福岡)
2018.2.13 救う会、東京高裁に請願書(署名)と要請文および熊本典道元裁判官の陳述書を添えた上申

     書を袴田秀子さんとともに提出。

2020.9.21  テレビ東京「0.1%の奇跡!逆転無罪ミステリー」で袴田巖さんと熊本典道さんについて放映

2020.11.11  急性肺炎のため死去。83歳。

 

 


一審死刑判決時の裁判官が衝撃の証言!

 2007年2月26日報道ステーション(テレビ朝日)

 

「1審静岡地裁の裁判官だった熊本氏は当時29歳、袴田巌さんの無罪を主張したが、裁判長と他の裁判官が死 刑を支持。合議制のため、死刑判決となった。しかも取り決めだからと熊本氏が死刑の判決文を書くことに。自分の子どもや親のことを思い出さない日はあって も、判決言い渡しの時の袴田さんの様子を思い出さない日はないという。1審判決の7ヶ月後、熊本氏は裁判官を辞めた。「袴田事件を一生背負っていかなけれ ばならない」と語った熊本氏は、袴田さんの再審請求にも協力する意向だという。」

 

写真は、国会内で記者会見する熊本典道元裁判官と袴田秀子さん(救う会撮影)   


公開学習会(PART 10)「それでも、まだ私を有罪 死刑にしたいのですか」

 2007年6月24日(日)、カトリック清瀬教会で、無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会の公開学習会(PART10)が開かれました。講師は、一審 静岡地裁で裁判官を務め、2月に、公判当時から袴田巌さんは無罪だと思っていたと告白して社会に衝撃を与えた熊本典道さん。90名近い参加者で、会場となっ たお御堂はいっぱいになりました。熊本さんは、一審静岡地裁での公判の様子、なぜ無罪心証のまま死刑判決を書かざるを得なかったのかを淡々とお話になり、 最後に「私の話を美談にしないで下さい」と会場に訴えかけると、会場からは拍手がわき上りました。時々見せる苦渋の表情が、袴田さんとはまた違った形で人 生を狂わされてしまった、一人の裁判官の心情を垣間見せていました。

(写真 カトリック清瀬教会で講演する熊本典道さん。救う会撮影)


「半生かけた回心と告白:袴田事件の元判事 」

カトリック新聞 April 21, 2017

 

 51年前、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で一家4人が殺された通称「袴田(はかまだ)事件」。〝犯人〟として逮捕され、死刑囚となった袴田巌さん(81)は3年前、冤罪(えんざい)が確定し「死刑執行」が停止された。釈放された袴田さんだが、50年を超える拘禁生活で精神も体もむしばまれた。しかし、この死刑判決は、もう一人の人生も狂わせた。第一審で死刑判決文を書いた元裁判官、熊本典道さん(79)。熊本さんの半生から「事件」を振り返ってみる。

 今春2月11日、福岡教区「福音と平和のつどい」で、袴田さんの釈放後の日常生活を描いたドキュメンタリー映画『夢の間(ま)の世の中』が上映された。会場には、車いすに乗った熊本さんの姿があった。
 脳梗塞、パーキンソン病、がん、アルツハイマー、言語障害を抱えた熊本さんは、簡単な言葉と、泣くことでしか自己表現ができないが、スクリーンに向かって3度「いわお(巌)!」と呼び掛けた。そして映画の最後に制作者の名前が字幕で流れ始めると、拳を突き上げて「ありがとう」と力を込めて叫んだ。
 熊本さんにとって、一番会いたい袴田さんに、スクリーンで会えた感謝の気持ちが、言葉となって表れたのだ。しかし、熊本さんの願いは、直接会って謝ること。そして、静岡地方検察庁が即時抗告をしたことで、先延ばしにされている再審(裁判のやり直し)の開始だ。

 転落の人生
 「袴田事件」で静岡地方裁判所の主任裁判官を務めた熊本さんは2007年、39年間の沈黙の末、ある告白をした。「評議の秘密を守らなければならない」という裁判の「おきて」を破って、真実を語ったのだ。同年6月、「袴田巌死刑囚の再審を求める上申書」で熊本さんはこうつづっている(一部抜粋)。
 「私は、(袴田さんが)無罪であるという心証を持っていましたが、合議の結果、他の裁判官を説得することが出来ず、主任裁判官として死刑判決を書かざるを得ませんでした。しかし、良心の呵責(かしゃく)に耐え切れず、翌年裁判官の職を辞しました。評議の秘密を守らなければならないことは十分理解しておりますが、そろそろ体力、精神力に自信がなくなってきました。袴田巌さんの再審を実現させる最後のチャンスになると思い、非難を覚悟の上、私の無罪心証を公表しました」
 死刑判決を言い渡された袴田さんの「がっくりときた様子」は忘れようにも忘れられず、熊本さんは半世紀、「あの日」のことを思い出さない日はなかったという。
 「あの日」から、熊本さんの転落の人生が始まった。大学卒業後に司法試験にトップ合格し、「人権派」で知られた裁判官だった。しかし、30歳の時、袴田さんの無罪を知りながら、他の2人の先輩裁判官との多数決に屈し、抵抗したが実らず、泣きながら死刑判決文を書いたのだ。半年後、弁護士に転身。大学講師を務めたこともある。
 しかし罪の意識から酒におぼれ、トラブルも絶えず、妻子とも別れ、地位も名誉も財産も全て失い、心と体を病んだ。死に場所を探して日本中を放浪し、何度も自殺を試みた。ノルウェーのフィヨルドまで行ったこともある。1995年には弁護士登録も抹消された。死亡説も流されていた熊本さんが、2006年、福岡県内でホームレス同然の状況で、偶然知り合った島内和子さんに助けられた。
 現在も同県内の老人ホームにいる熊本さんの介護に当たる島内さんは、当時をこう話す。
 「家でも公園でも、ぼーっとしていて、いつも死のうとしていました。海に身を投げようとしたこともあります。電車に飛び込み、血だらけになって帰ってきたこともあります。(熊本さんの)死にたい気持ちは、今も変わらないと思います」
 3年前、熊本さんはカトリックの洗礼を受けた。長年、袴田さんを支援してきた「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」副代表の門間幸枝さん(東京・清瀬教会)は、熊本さんの思いをこう代弁する。
 「熊本さんは、袴田さんに謝りたくて、東京拘置所に何度も通いました。でも家族以外が死刑囚に会うことはできません。『ゆるされなくても謝りたい』と、熊本さんは、これまで何度も何度も謝りました。記者に責められ、いつも泣いて謝っていた。今も、当時を思い出して泣くだけです。獄中で(1984年)カトリックの洗礼を受けた袴田さんの気持ちに少しでも近づきたいと、熊本さんは洗礼を望んでいたのです。これほどの悔い改めを見たことがありません」
 2014年前、袴田さんの再審が決定した時、テレビでそのニュースを見た熊本さんは、両手を上げて喜んだ。裁判所の前から門間さんが電話を入れると、受話器の向こうから熊本さんの泣き声がしばらく聞こえていた。そしてその後、熊本さんは威厳と重みのある声で、「(本勝負は)これからだ」と決意を込めて語ったという。
 その言葉通り、静岡地方検察庁が東京高等裁判所に即時抗告をしたために再審は先延ばしにされ、袴田さんは、いまだに〝完全無罪〟にはなっていない身だ。年金も支払われず、姉の秀子さんに支えられ、静岡県浜松市で生活している。
 熊本さんは、アルツハイマーを患いながらも、「袴田さんの再審を!」という言葉を聞くと、拳を突き出し、「闘う」姿勢をとる。
 半世紀前の「袴田事件」。袴田さんと熊本さんの人生を変えた「〝判決〟の日」は、まだ続いている。